〈実在する持続〉
分析が不動なものをしか取り扱わないのに反して、直観は動性へ、言いかえると持続へ入っていくことを意味している。直観と分析とを分かつ限界線が、ここにはっきりと引かれているのである。
実在的なもの、体験されたもの、具体的なものは、変化性そのものだという事実によって、そのようなものとして認められるのであり、要素は、変化しないものであるという事実によって、要素として認められるのである。
要素は一つの図式であり、単純化された再構成であり、しばしば単なる記号であり、いずれにせよ、要するに流れる実在についてのただの眺めなのだから、その定義から言って変化しないものである。
しかるにこのような図式をもって実在するものを再構成できると信じること、それが誤謬なのである。直観から分析へ行くことはできても、分析から直観へは達しえない。変化性から、その変種や属性や変様がいくらでもつくられうるのは、それらは、直観に与えられた動性について、分析によって得られたそれだけの数の静止した眺めだからである。
しかし、それらの変様をつなぎ合わせたものが変化性と同じものをもたらしえないというわけは、こうしたものが動性の部分ではなくて、その要素であるがためであって、部分と要素とはまったく別のものだからである。
たとえば、同質性にもっとも近い変化性である、空間のうちの運動を考察してみよう。空間のうちの運動については、その全延長にわたって可能的な停止点を思い浮かべてみることができる。すなわちその運動体の位置とか、運動体が通過していく点と私の呼ぶものが、可能的な停止点である。
しかしこういう位置が無数に与えられたとしても、それでもって運動をつくることはできない。それらの位置は運動の部分ではなくて、運動についてとられたそれだけの数の眺めであり、停止のそれだけの可能性と言ってもよいであろう。運動体の点とは、それだけの数の場所として運動の下へわれわれが投射したものにすぎない。だから、それは本来の位置ではなくて、運動の下へ置かれたもの、精神による眺めないしは観点なのである。観点からどのようにして物をつくりえようか。にもかかわらず、運動について考えたり、また運動がその表象に役だつ時間について推理する場合に、われわれはいつも観点から物をつくろうとこころみている。
さらに、運動体の位置は運動の部分ではなく、空間の点なのであり、空間は運動の基体として想定されたものであると言いたい。このような空間は不動、空虚であって、概念のうちにだけ存し、直観のうちには実在しないのである。それはまさしく記号としての価値をもつものなのである。
記号を操ることによって、どうして実在がつくり出せようか。

〈実在と動性〉
直観の運動に関する以下の命題を与えることができよう。
1 外的ではあるが、しかもわれわれの精神へ直接に与えられた実在が存在する。
2 この実在とは動性である。実在するものは既成の事実ではなくて生成しつつある事物であり、自己を維持する状態ではなくて変化しつつある状態である。
3 われわれの精神は動く実在の内部へ自己を移し、その不断に変化する方向をわがものとすることができる。要するに、直観によって実在を把握することができる。
形而上学の目的の一つは、性質上の微分法積分法を行うことである、とわれわれは述べたいのである。

〈哲学的直観〉
科学は行動を助ける道具です。
行動は結果を目ざします。科学的知性は、目ざす結果が得られるには何が行われねばならないかを尋ねます。
より一般的に言えばそれは、ある現象が起こるためにどのような条件が満たされねばならぬかを問います。
科学は事物の一つの配列から新しい別の配列へと動くものであり、同時性から同時性へと向かいます。
二つの配列、二つの同時性の中間で起こることを、科学は必然的に無視します。たとえとりあげても、それは次の配列すなわち同時性を考えるためだけです。
科学の方法は全くできあがったものを把えるための方法ですから、科学は一般的に言って、起こりつつある事柄に入ることができず、動いているものを追うことも、それこそ事物の生命である生成をとり入れることもできないのです。これらを行うのは哲学です。
科学者は運動について静止した像しか持つことができず、繰り返されないものに従いながら、繰り返されるものを集めようとのみします。
また科学者は、実在が展開されている連続的な面の上で、人間の行動に便利なように実在をつごうよく分割することに注意を奪われ、そのため自然をだまし、自然を相手に挑戦的闘争的態度をとることを余儀なくされています。
これに対し、哲学者は自然を友として扱います。哲学者は服従もせず支配もしません。この点から見ても哲学の本質は単純の精神です。
常に言えることは、複雑は表面にすぎない、体系は付属品にすぎない、綜合は外観にすぎないということです。哲学するとは単純な働きなのです。真の持続へ向け直された精神はすでに直観的生命を生きており、物に対するその認識はすでに哲学です。
この精神は、無限に分割可能でまた互いに交換できる瞬間の非連続的な集まりとして時間を見る代わりに、不可分に流れる連続的な流動としての真の時間を把えます。また表面的状態と物とは互いに無関係で、表面的状態は物に次々におおいかぶさるものであり、状態と物とは現象と実体という不可思議な関係を保つと考える代わりに、この精神は、同じ一つの変化がたえず増大してゆくというように考えます。
実在を連続的で不可分なものとするこの見方こそ、哲学的直観へ導く見方です。なぜなら、直観へ行くのに感覚と意識との範囲の外に出る必要はないからです。
カントの誤りはそれを必要だと信じたことです。彼は、どんな弁証の試みも私たちを本体の世界へ導いてはくれないこと、形而上学が効果的であるためにはどうしても直観的形而上学にならねばならないことを、決定的論証によって証明しながら、そのあとでかような直観がわれわれには欠けており、かかる形而上学はわれわれには不可能である、と付け加えたのです。
しかし私たちがおのずと入りこんでいるこの時間や、日常想像しているこの変化は、物に対する行動を容易にするため、私たちの感覚や意識によってばらばらにされた時間や変化にすぎません。
私たちの感覚や意識のこのしわざを元どおりにし、知覚をその源にさかのぼらせるならば、別に新しい能力を求めずとも、新しい種類の認識を獲得できるのです。
この認識が行きわたる時、それによって利益を受けるのは哲学的思弁にとどまりません。毎日の生活もそれによって暖められ、明るくされます。
私たちが私たちの感覚や意識によって習慣的に入りこんでいたこの世界は、もはや世界の影にほかならなくなるからです。

〈意識と生命〉
私たち人間はどこからやってきたのでしょうか。私たち人間とは何なのでしょうか。私たち人間はどこへゆくのでしょうか。
これらの問題こそまさに根本的な問題であります。
私としては、こういう重大な問題の解決を数学的に演繹しうるような原理はないと思っています。そのうえ、ほんとうのところ、物理学や化学の場合とは違って、問題を解決する決定的な事実もまたここにはないと思っています。ただ、経験のさまざまな領域には事実のいろいろなグループが認められ、そのグループのおのおのは私たちの獲得しようと望んでいる認識を与えはしないとしても、そういう認識を見つけだせる方向を示しているように思います。
私たちが精神という場合、それは何よりもまず意識を意味します。それでは意識とは何でしょうか。私はきわめて明らかな意識の特徴をあげることによって、意識というものの性格を示すことができます。すなわち、意識とはまず記憶を意味します。もしも記憶が存在しないならば、意識もまた存在しません。
ライプニッツが、物質とは「瞬間的な精神」であると言ったとき、いやおうなく、物質とは感覚を持たないものだと宣言したのではないでしょうか。
このようにして、意識というものは記憶であり、つまり、現在における過去の保存と蓄積なのであります。
しかしながら、意識というものは未来の予期でもあります。注意とは期待であり、生への何らかの注意をともなわない意識はありません。そこに未来があります。未来は私たちに呼びかけます。あるいはむしろ、私たちを未来へと引っぱります。この不断の牽引によって、私たちは時間という道を進まされるのですし、この牽引はまた、私たちがたえず行動を続ける原因なのであります。
行動とは未来への侵入なのであります。だからして、すでに過ぎ去ったものをとどめておき、まだ存在していないものを予期すること、これこそ意識の第一の機能であります。
意識は、あったこととあるだろうこととの間を結ぶ連結線であり、過去と未来をつなぐかけ橋であるとも言うことができましょう。
しかし、このかけ橋は何の役にたつのでしょうか。そうして、意識の任務とするところのものは何でしょうか。
人はよくつぎのように言います。「私たち人間では、意識は脳に結びつけられている。だから、脳を持っている生物だけに意識があるのであって、他の生物には意識はないとせねばならぬ」と。意識が人間にあっては脳に結ばれていることは異論のないところであります。しかし、だからといって、そのことから脳は意識に欠くことのできないものであるということには帰結しません。
動物の系列をおりてゆけばゆくほど神経中枢もしだいに簡単になり、解体してゆき、しまいには、神経の諸要素は消えて、ほとんど分化していない有機体のかたまりのなかに没してしまします。だから、厳密には、すべて生命を持っているものは意識をもつことができると言えましょうし、原理的には、意識は生命と同じ外延を有しているのであります。

〈選択の機能〉
動物的生命の高等なものから下等なものへと見てゆくと、下等な動物となるに従って、ますます漠然とした形にはなりますけれども、選択の機能、つまり、一定の刺激に対して多少とも予想外な運動で答える機能が働いていることがわかります。これが第二の系列において、私たちが見つけだすことができる結論であります。
かくして、私たちが第一の事実の系列においてだした結論が補われます。というのは、前に言ったとおり意識は過去をとどめて未来を予期しようとするものであるならば、それはとりもなおさず、疑いもなく、意識の任務は選択することであるからであります。

〈人間〉
物質は必然であり、意識は自由であります。しかし、両者はいくら相互に対立していても、生命はそれらを和解させる手段を見つけます。
それというのも、生命とはまさしく必然のなかに割り入って、必然を自己の利益となるように変える自由であるからであります。
あらゆる種類の潜在力が互いに浸透しあっている意識のはてしない流れが、物質を横ぎって物質を有機体化し、そうして物質が必然そのものであっても、物質を自由の一手段となすかのようなことが起っているのであります。
人間の脳は、実際、動物の脳にきわめてよく似てはいますが、人間には特別な働きがあります。その特別な働きというのは、どんな凝り固まった習慣にも他の習慣を対抗させ、どんな自動的な運動にも他の自動的な運動を対抗させる手段を提供するという働きであります。そうして、一方の必然性が他方の必然性と争っているすきに、自由は備えを立てなおして物質を手段の状態に連れもどします。それは、ちょうど分割して支配するかのようであります。

〈心と身体〉
私たちが「私」とか「我」とかいった言葉で言い表している、この「我」とはいったい何でしょうか。
それは、よかれ悪しかれ、それが結びついている身体から、そのどの部分においてもはみ出ているように見えるもの、すなわち、時間においても空間においても身体を越えているように見えるものです。
空間において、まずそれは身体を越えています。なぜなら、私たちの一人一人の身体ははっきりと定まった輪郭の中に限られていますが、それに反して知覚する能力、とりわけ見る能力によって、私たちは自分の身体を越えてひろがります。それは星にまでもとどきます。
次に、時間においてもそうです。身体は物質ですし、物質は現在に在ります。そして、もし過去が現在に跡を残していることが本当だとしても、この過去の跡は、この跡を知覚し、知覚したものを追憶の光にあてて解釈する意識あっての過去にすぎないのですから。
意識はこの過去を引きとめ、時が流れるにつれてその過去を自己のうちにまきこみ、それでもって未来の創造に役だつよう準備します。身体のいたるところからあふれ出し、自分自身を新しく創りかえながら行動を生み出すこのものこそ、「我」であり、「心」であり、「精神」であります。
精神とはまさに、自分が持っているものよりさらに多くのものを自分から引き出し、受けとったものよりさらに多くのものを返し、持っている以上のものを与えることができる力であります。

〈思いではどこに保存されるか〉
一般の説明ほど単純なものはありません。それによると、思い出は解剖学的な成分のかたまりの中に刻みこまれた変化として、脳の中にたくわえられています。思い出が記憶から消えるのは、思い出がたくわえられている解剖学的な成分が変化するか、こわされるかしたからです。
記憶を脳というものから説明するとき、よく比較されるのが乾板や録音板です。外界の対象から与えられた印象は、ちょうど感度のよい乾板やレコードの上に残るように脳の中に残るということです。しかしよく考えてみると、こういう比喩は人をあざむくものであることがわかります。たとえば目でとらえた物の思い出が、もし本当にその物によって私の脳の中に残された印象であるなら、私はけっして一つの物の思い出を持つのではなく、幾千幾万の物の思い出を持つはずです。なぜなら、どんなに単純で動かない対象であっても、それを見る私の視点の動きに応じて形や大きさや色合いが変化します。だからそれを見るとき、自分を絶対的に固定しておかないかぎり、そしてまた、私の目ががんか眼窩の中で動けなくなっていないかぎり、無数の像が重なることなくつぎつぎと網膜の上に描かれ、私の脳に伝えられるでしょう。
ある人物の視覚像についてならどうでしょう。その人に会うごとに表情がかわり、身体が動き、衣服や周囲がかわっているといったような場合には。しかしその場合にも、私の意識はそのものや人物についてただ一つの、あるいはただ一つと言ってさしつかえない心像か、あるいは実際にはほとんどかわらない思い出を示すことは確かです。このことは、そこに機械的な記録とは全く別のものがあったということを明らかに示しています。
また、聴覚の思い出についても同じことが言えましょう。同じ単語を違った人たちが発音したり、また同一人物がそれを違ったときに異なった文章の中で発音した場合、録音された音は同じではありません。
単語の音の思い出は、それが比較的不変でただ一つの思い出であるにしても、それをどうして蓄音機になぞらえることができるでしょうか。
ちょっとこう考えてみただけですでに、言葉の記憶の病気が、脳の表皮に自動的に記録されていた思い出そのものが変化したり、またこわれたから起こったのだとする説は全く疑わしくなります。
さて、この病気にかかると、どういうことが起こるか見てみましょう。
脳の障害がひどくて、言葉の記憶が深く冒されているときでも、かなり強い刺激、たとえば一つの感動といったものによって、すっかり失われたように見えていた思い出が突然もどってくることがあります。もし思い出が、変質したりこわされた脳の物質の中にたくわえられていたものだとしたら、どうしてこういうことが起こりうるでしょうか。
一般的に言って、言葉は、あたかも病気が文法を知っているかのように一定の順序で消えてゆきます。固有名詞がまず姿を消し、次いで普通名詞、それから形容詞、最後に動詞という順です。このことは一見、思い出が脳実質の中にたくわえられるという仮説を正当化するように見えます。固有名詞、普通名詞、形容詞、動詞が、いわば互いに重なった層のようになっていて、病害はこれらの層をつぎつぎに冒していたというわけです。なるほど。しかし病気は実にさまざまな原因から起こり、非常に違った形をとり、関係ある脳部のどの点からも始まって、どちらの方向にも進みます。しかし、記憶が消えてゆく順序はいつも同じです。もし病気が冒しているのが記憶そのものだとしたら、こうしたことがはたして起こりうるでしょうか。
この事実は、したがって、別の仕方で説明されなければなりません。
非常に簡単な説明を紹介してましょう。まず第一に固有名詞が普通名詞のさきに、普通名詞が形容詞のさきに、形容詞が動詞のさきに消えるのは、それは固有名詞は普通名詞より、普通名詞は形容詞より、形容詞は動詞より思い出すのがむずかしいからです。
しかし、思い出すことのやさしさとむずかしさの違いはどこから来るのでしょうか。そしてなぜ他の言葉にくらべて動詞が、思い出すのにいちばん楽なのでしょうか。
それはごく簡単なことで、動詞は動作を表現し、動作は身ぶりで表わせるからです。動作は直接に身ぶりで表わせますが、形容詞は自分の含む動詞の仲だちによらねば身ぶりで表わせません。名詞は名詞の属性の一つを表わしている形容詞と、形容詞の中に含まれている動詞の二重の仲だちによらねばなりません。固有名詞は、普通名詞、形容詞、動詞の三種の仲だちによらねばなりません。だから動詞から固有名詞へ進むにつれて、すぐに真似のできる動作や、身体で演じられる動作から少しずつ遠ざかるのです。
さて、思い出が脳のうちにたくわえられていないなら、いったいそれはどこに保存されるのでしょうか。
「どこに」という問いが、もはや物体について語らないときにも意味があるかどうか、私には本当のところわかりません。
しかし目に見えず触れることのできないものである思い出に、どうして容れ物が必要であり、どうして容れ物をもつということができるのでしょうか。しかし、もしあなたがどうしてもとおっしゃるなら、思い出がはいっている容れ物という観念を受けいれましょう。ただし全く比喩的な意味においてです。そして端的に、思い出は精神の中にあると申しましょう。
私は、仮説を立てているのではありません。神秘的な存在を持ち出しているのでもありません。私は、観察に基づいて言っています。なぜなら、意識ほど直接的に与えられているものはなく、意識ほどはっきりと現実的なものはありませんが、人間の精神はこの意識そのものなのです。私たちの注意をたえず生活の上に釘づけにしておく役をするのが脳です。
そして生というものは前方に目を向けています。生は、過去が未来を照らし、未来に備えるのに役だつとき以外は、うしろをふり返りません。精神にとって、生きるということは、本来、なしとげようとする行為にみずから集中することです。
ゆえに精神は、意識の中から行為に役だつものだけを抜き出し、そのほかの大部分をかすんだままにしておくというメカニズムを仲だちとして、事物の中に自己をはめこむのです。記憶のはたらきの中で脳が果たす役割はこれです。それは過去を保存するのに役だつのではなく、まず過去を覆い、次に実際に役だつものだけを目だたせることに役だつということです。
精神全般に対する脳の役割もこれです。脳は、精神の中から運動として外にあらわれうるものを取り出し、精神をこの発動の枠の中にはめこみ、いつもその視界を限るようにしますが、また同時に、精神のはたらきを効果的なものにするようにもします。
すなわち、精神はあらゆる点で脳からはみ出しており、脳のはたらきが対応するのは、心のはたらきのごくわずかな部分にすぎないということです。

〈実在論と観念論〉
実際、私たちは外部の対象について述べるとき、二つの表記方式のどちらかを選ぶことができます。
すなわち、対象と、対象に起こっている変化とを、ものとして扱うこともできますし、表象として扱うこともできます。
そしてこれら二つの表し方は、選んだものをきびしく守っているかぎり、いずれもそれぞれ許すことができます。
まずこの二つを精確に区別してみましょう。実在論がものについて語り、観念論が表象について語るときには、この二つは単に言葉について議論しているのではありません。それら二つの異なった表記方式なのです。すなわち、実在の分析を理解する二つの異なった仕方なのです。
観念論者にとっては、実在のうちには、自分の意識または意識一般に現れるもの以外には何もありません。彼らにとっては、事物の中に潜在性はないのです。すべて存在しているものは、現実的であるか、現実的になりうるかなのです。
要するに、観念論とは、つぎのような意味を含む表記方式なのです。すなわち、物質の本質的なものは、その物質について私たちがもつ表象の中にすっかり展示されているか、展示されうるかであるということ、また、実在するものの分節は私たちの表象の分節そのものであるということです。
実在論は反対の仮説によっています。物質が表象とは独立に存在するということは、私たちの表象の下にはとらえがたいこの表象の原因があり、現実的な知覚の背後には可能性や潜在性がかくされていると主張することであり、さらに、私たちの表象に見られる区分と分節は、単に私たちの知覚の仕方と相対的であるということの肯定です。
観念論の仮説に立つとき、脳の変様は外部の対象の作用の結果であることはよくわかります。つまりそれは、有機体に受けとられ、適当な反応を準備しようとする運動なのです。神経中枢は心像の一つですし、すべての心像と同じく働いている心像ですから、外部からの運動を受けとっては、それを時には完全な形の反作用へひきつぎ、時には単に起こりかけの形にとどめておく運動面を示します。
しかしこの際、脳の役割はほかの表象から作用を受けること、すでに述べたように、その作用の運動のふしぶしを描くことにすぎません。この点でこそ、脳はほかの表象のために不可欠でありますし、またそのゆえにこそ、脳が損なわれるならばかならず表象に多少とも全般的に狂いが生じるのです。
しかし、脳が表象そのものを描き出すのではありません。なぜなら、脳は表象なのですから、それは表象の一部分であることをやめて全体そのものになるのでないかぎり、表象の全体を描くことができないでしょうから。

〈実在論への無意識のうちの移行〉
しかし実は、観念論の観点から擬似実在論の観点に気づかずに立場が移されているのです。
はじめ脳は、ほかの表象と同じような一つの表象であり、ほかの表象の中にはめこまれて、それらと不可分であるとされました。脳の内部運動は表象の一つなのですから、これにそれ以外の表象を生み出させる必要はありません。なぜなら、ほかの表象はこれといっしょに、これをとりまいてすでに与えられていたのですから。
ところが無意識のうちに、脳と脳内の動きはものとして、すなわち、一つの表象の背後にあるかくれた原因としておしたてられてしまします。しかもその原因のもつ能力は、それで表象されているものよりも無限に広い範囲にまで及ぶとされます。
なぜこのように、観念論から実在論へと滑りゆくのでしょう。多くの理論的な錯覚がこのすりかわりを助長してはいますが、事実がそれを示すと信じこみさえしなければ、ひとはそれほどやすやすとすりかわるままにはなっていなかったでしょう。

〈観念論への無意識のうちの移行〉
あなたがたはたしかに、まずはじめに脳があり、外部の対象が脳を変化させて表象を起こさせるとされたはずです。
つぎに、脳の外の対象を払いすてて、脳の変様が単独でそれらの表象を描く能力をもつとされたのです。しかし、脳をとり囲んでいる対象を抹消すれば、そのつもりはなくても、それらの対象から自分自身の性質と実在性とを得て来ている脳の状態をも抹消してしまうことになりましょう。
それでもなお、脳が残っているとされるのは、あなたがたが観念論の表記方式に、すなわち表象の中で分離しているものを当然分離可能であると考える方式に、こっそり移っているからなのです。
実在論者は実在するものがあるとするかぎりは、たしかに実在論者なのですが、いったん何らかのものを実在として認めたあとでは、観念論者になってしまいます。
観念論についてすでに述べたことが、観念論をひき受けたと称する実在論にそっくり当てはまることになりましょう。そして脳の状態を知覚や記憶の等価物とみなすのは、どの名でその方式が呼ばれるにせよ、いつでも、部分は全体である、と主張することになりましょう。

〈精神の無意識な動揺〉
これら二つの表記方式を掘り下げますと、観念論は本質的に空間にひろげられているものと空間的区分とに執着するが、実在論はそのようなひろがりは表面的なものであり、またそのような区分は人為的だとする、ということがわかりましょう。
実在論は並置された表象の背後に、相互作用の組織、したがってまた表象相互の包含関係を考えるのです。
ところで、物質についての私たちの認識は、空間からすっかり外に出てしまうことができませんから、また、いま問題になっている相互の包含関係も、それがどんなに深いものであるにせよ、空間の外に出るならば科学の外に出てしまいますから、実在論は自分の説明の際に観念論をこえ出ることができないのです。

『ベルクソン 哲学的直観ほか』  アンリ・ベルクソン著  中央公論社
ベルクソン(Henri Bergson) 1859〜1941フランスの哲学者。1928年ノーベル文学賞を受賞。
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